■ 奇跡のラグビーマン メイキングストーリー3

「奇跡のラグビーマン」という本書のタイトルは、取材を進めるうちに自然に頭に浮かんできた。「37歳の日本代表」という事実が奇跡的なのはもちろんだが、そんな「奇跡の存在」はどのようにして生まれたのか。取材を通じてその道のりを深く知るにつれ、「これは本当に奇跡そのものだ」という思いを強めたからだ。それもひとつやふたつではなかった。

 執筆作業を進めている途中、予想しなかったニュースが飛び込んできた。2005年度トップリーグの第2戦。地元・磐田のセコム戦だった。秩父宮の試合を取材後に磐田からの試合記録を手にした記者は、ヤマハの出場選手の欄にある文字を見て嫌な予感を覚えた。そこにはヤマハの9番が「入替」ではなく「交代」で退いたことが記されていたのだ。
すぐにヤマハの広報担当に電話を入れる。だが試合直後。なかなか捕まらない。悪い想像が膨らむ……ようやく携帯がつながった。そして事実を知った。顎の骨折だった。
38歳を迎えるシーズンの骨折である。年齢を考えれば、そのまま引退してもおかしくなかったろう。しかし村田亙は、まるで迷うことなく復活を目指して手術することを決意していたのだった。口も開けられないのでは……と見舞いメールを送った記者に、村田亙は「大丈夫、喋れますよ」と電話をかけてきてくれた。本当は喋ることも簡単ではなかったはずだが、村田亙は、顎の治療、リハビリに費やす時間を使い、体幹の再強化にも取り組もうとしていることを話してくれた。すべての出来事を前に進むエネルギーに変えてしまうのは村田亙の人生を貫く行動哲学は、当たり前だが健在だった。

入院先の病室を訪ねると、村田亙は管理栄養士を相手に、回復を早めるために病院食に追加して良い食材について尋ねていた。そして村田亙は自分で病院近くのコンビニに出かけ、顎に負担をかけずにカルシウムとタンパク質を補充するためのひきわり納豆を買い込み、用意された食事に加えて、顎に衝撃がかからぬよう時間をかけて食べていた。
どんな状況に置かれても、常にその時点でベストの選択肢を追い求める。顎の骨折は不幸なアクシデントだったが、起きてしまった以上、すぐに次のステージを見据える。復帰へのプログラムは治ってから始めるのではなく、手術に臨む前から始まっていた。頂点を求めるアスリートにとっては当然だろうが、村田亙は自分の意志でそれを徹底し、極限まで遂行しようとしていた。その真摯で貪欲な姿勢に、改めて驚かされた。

本書を執筆する作業は、楽しかった。
福岡での子供時代やフランス時代を描写するにあたっては、多くの方々の話が記者を助けてくれた。とりわけ、草ヶ江から東福岡高まで村田亙と一緒だった大塚正明さんは、同級生団の中でもずば抜けた記憶力で、草ヶ江、東福岡の当時の光景が目に浮かぶように話してくれた。宮城県で生まれ育った記者が1970年代の福岡を描写するというハードルの高い作業は、タイムスリップしたような錯覚さえ抱かせてくれた大塚さんの記憶力と再現力に助けられて可能となったものだ。
あとは、無理にストーリーを練ろうとせず、村田亙の人生をたどろう。それが何よりも「奇跡のラグビーマン」の真実を伝える方法だと思った。そのためには、記者の主観が過剰に入らないよう、淡々と記述するよう努めた……つもりである。中には「これで?」と思われる方もいらっしゃるかもしれないけれど。
唯一悔いが残るのは、ページ数と構成の都合で、村田亙を取り巻く他の選手について、多くの魅力的なストーリーを割愛せざるをえなかったことだ。当たり前だが彼らは村田亙を成長させるためではなく、自身が勝利するために、ポジションを問わず村田亙に勝負を挑んでいた。いつか、そんな物語をまた描いてみたい。

(大友信彦)

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