■ 奇跡のラグビーマン メイキングストーリー2

「村田がジャパンに呼ばれるみたいですよ」

 2005年4月。初めてその情報を聞いたのは、横浜のYC&ACセブンズ会場でのことだった。あるチームの監督が内緒で教えてくれたその情報は、記者の背中を強く押した。

日本代表の南米遠征には、唯一の専門誌「ラグビーマガジン」さえ特派員の派遣を断念していた。なにせ、南米はまるっきり地球の裏側である。日本からは直行便もなく、英語もまるで通じない。ワールドカップ予選とも関係ないただのツアーマッチでは報道価値も高くない……だがそういうときこそ、フリー記者のチャンスでもある。ナショナルチームの、それもテストマッチを独占取材できるチャンスなんて、そうあるものではない。

しかもそこに、もうひとつのトピックが生まれたのだ。それも、村田亙の37歳での日本代表再デビュー! かくして記者は、地球の大きさを嫌でも実感させられる長時間フライトの末にブエノスアイレスに到着。海にしか見えない大河ラプラタを高速船で渡り、ウルグアイのモンテビデオにたどり着いた。そうして目撃した村田亙の代表再デビューは37歳という年齢をまったく感じさせなかった。逆境を克服してきた奇跡のストーリーが新しい章に入ったことを知った。そして村田亙の半生を纏めた一冊の本を作ろうと決意した。

追加取材の作業は2005年の盛夏に始まった。福岡に飛び、家族と友人たち、恩師たちに会い、子供時代の話を聞いた。東京に戻り、あるときは磐田へ出向き、ライバル、ドクター、チームメート、アドバイザー……いろいろな立場で村田亙と関わってきた人から話を聞いた。取材は興奮の連続で、次々と語られる新事実に圧倒され続けた。とりわけ、次兄・村田晶さんの話は興味深かった。村田晶さんは、独力でスクラムハーフの理論を築き、それを少年時代の村田亙に注ぎ込み、スクラムハーフ村田亙の礎を築いた。檜舞台に上がる機会を得られなかった「栄光なき天才」だ。村田亙という、それまで主流だったラグビースタイルとは異なるキャラクターがいかにして登場したのか。現在も神奈川の田園ラグビースクールで少年たちへの指導を続けている村田晶さんの物語を詳しく知ることで、より深く理解できた。

バイヨンヌ移籍に尽力した野口眞弓さんと岩渕健輔さん、アニエス・カリエさんから利いた物語にも興奮した。現在はサニックス・ブルーズの広報として日本ラグビー界に知られる野口さんだが、当時は「ラグビーがスポーツか何かも知らなかった」というフリーのモータースポーツ編集者だった。当時青学大のラグビー部員だった岩渕健輔選手と知り合ったのは、F1の英文原稿を翻訳してくれる若い翻訳家を探していたのが発端だったという。野口さんは、世界のF1界に名を知られたチーム・マールボロの広報だったアニエス女史に助言を求め、さらに数多くの協力者が間でさまざまな助言をし、「チーム・ワタル」はバイヨンヌというチームにたどり着くのだ。スイス在住のアニエスには、都合よくF1日本GPに来日した際に会うことができたが、通訳の木村卓二さんを急かしてしまうほど、インタビューはエキサイティングだった。記者は話を聞きながら、冒険小説を読んでいるようなワクワク感に襲われた。そして思った。

村田亙の人生はまさしく、それ自体が冒険小説のようなものじゃないか……。

(大友信彦)


 
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